言語について:言葉の数だけ、気持ちがある

ちょっとコラム的な。
Twitterで面白いツイートを読んだので一言。

いまさら @kenichiromogi さんのアカウントを発見。日本語でもtweetしてたんだ。それにしても、自己紹介の「英語の人格 kenmogi 日本語の人格はこちらです。」というの、すごくわかる気がする。言語が変わると人格も変わる。そのときいる文化圏によっても。

– stkbys, on Twitter

以前僕は横浜BAYSISのマンスリーに “Sleepyhead Jaimie すわだいすけの「I miss you, California!」”というコラムを書いていて、その1つで言語について書いた事があるので、自分を引用してみます。

今回はちょっと真面目な事書いてみます!8才〜18才という多感な時期をアメリカで暮らして、バイリンガルになって初めて気付いた事、それは「言葉の数だけ気持ちがある」って事。
例えば「愛してる」と「I love you」。同じ意味だと思いがちでしょ?実は違うんです。違う気持ちなんです。日本人が「愛してる」とあまり言わないのは、そんなに軽々と口にするような言葉じゃないのに対して、「I love you」はもっとフランクなホッコリとした言葉です。
ハリウッドでお馴染み「Fuck you!」という言葉一つとったって、訳せません。何故かって、「Fuck you!」と叫ぶような攻撃的な感情が日本人には無いからだと思います。逆に例えば「麗しい」なんて和訳すると「beautiful, lovely」なんて出るんだよ?全然違うし!
それを痛感したのが僕自身の作詞で。僕は歌詞が英語からできたりするんで、それを日本語に訳そうとしても、結局全然違う気持ちの歌になっちゃうんです。例えば本コラムのタイトルになってる「I miss you, California」だってそう。「恋しいよ、カリフォルニア」じゃあ・・。チガウチガウ。
そんな風に考えると英語も日本語もとっても特徴的で、言語が文化の鏡だという事が本当に良く解ります。日本に帰国してからはや10年、最近やっとその事に気付きました(笑)

– すわだいすけ, from 横浜BAYSIS マンスリーコラム Sleepyhead Jaimie すわだいすけの「I miss you, California!」vol.3

これは文字数の関係で言語と文化にスポットをあてたけど、

実は言語と性格もそうなんだよね。

僕は英語をしゃべってる時の方が、対人的にフランクで、おおらかで、easy goingだと思います。
逆に日本語の時はもっと几帳面で、理論的で、理屈っぽいと思います。

それはやっぱり言語が持つ「性格」、その言語を使う事によってある程度それに支配されるんだよね。

コンピューターと一緒で。

根底にどういう言語が流れているかで、全ての挙動が変わってくるでしょ?
長所短所が変わってきたり。行えるタスクが変わってきたり。
例え訳せた=エミュレートできたとしても、それは本当の意味でのネイティブじゃないから、どっかギクシャクしてたり、反応が遅かったりする。

人も一緒。

外界に対する情報処理、例えばショッキングな出来事に遭遇した時に、
その情報が脳に達して、どうプロセスされるか。

「まぢかよ!」とプロセスするか、
「oh shit!」とプロセスするか。

それによって受ける感情も変わってくるんだよね。
表情や、その後のリアクションにまで変化が出てくると思う。

逆に、

例えば英語に慣れてない人が、「オーシット!」って言っても、
何かイマイチ気持ちが乗らないでしょ?w ショッキングさが薄れるでしょ?w

そんな感じ。

それが複雑なになればなる程、
連続性があればある程、
最終的には根本的な性格の部分まで変化しちゃうんだよね。

言語ってとっても面白い。
そして考えれば考える程、脳ってコンピューターと何が違うのかが解らなくなってくる。

これはまた長くなるので、また今度(笑)

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